第三幕 「恵風」

烏天狗たちの幼少時代。和やかな日常の中で巻き起こった騒動が描かれる第5話・第6話。


「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、………」
 目を覆って蹲った幼子が、弾むような声で時を数えている。数え始めと同時に駆け出した彼女より少し年嵩のいった少年少女たちは、思い思いの場所へと散り散りになり、息を潜めた。
「……なな、やー、ここのつ~、……とお!」
 数え終わった少女が立ち上がる。まだ幼いながらも利発そうな切れ長の目もとは、鮮やかな隈取で朱く縁取られている。
「よォし!ぜったいにみんな見つけだしてやるんだからぁ!」
 ふんっ!と鼻息を荒らげながら腕まくりをすると、南風はまだ小さな黒翼をばさりとはためかせ、中空へ飛び上がった。それなりに広い里の中でも、隠れられそうな場所は限られている。空から偵察すれば、先日の隠れんぼで自身が隠れたあの倉の裏側も、兄に教えてもらったあの樽の中も、全部丸見えだ。南風はふふっ、と北叟笑むと、羽音をさせないようにゆっくりと降下した。



「は~い!おひとりさま、みぃつけたァ」
「うわぁっ!」
 いつ鬼に見つかるだろうかと、南風が駆けてくるであろう方向を樽の中から覗き見していた疾風は、背後の高い位置から声を掛けられて思わず飛び上がった。
「何だよッ、空から来るなんて聞いてねーぞ!」
「飛んじゃいけないなんて掟、作ってなかったでしょ?はい、疾風の負けェ~!」
「ちっ……ずりぃぞー!」
 この間の隠れんぼのとき、「隠れんぼに飛んだらダメって掟なんかねーもん!」って言って雲の上に隠れてたのはあんたじゃん。自分の行動を棚に上げて毒吐くあたり、疾風らしい。クスクスと笑いながら、不貞腐れる疾風とともに鬼の陣地である隠れんぼの開始位置へと歩いて戻った。
「さて、と……あと七人!次は誰が見つかるかなァ」
「なんだよ、オレが最初かよー。ちぇっ、上手く隠れたと思ったんだけどなー」
 胡座をかいて座り込んだ疾風は、己の膝に頬杖をついて不服そうな声を上げる。
「だって、疾風ってばバカなんだもん。あの樽の中、兄様が『絶好の隠れ場所だ』って教えてくれたところなのよ」
「おめーなぁ、年上に対してバカとはなんだ!」
「バカにバカって言って何がいけないのォ?」
 ああ言えばこう言う。しれっと答えた彼女に、疾風はムキになって同じレベルで言い争っていたが、応酬を続けた挙句、あの手この手で言いくるめられて負かされてしまった。
 南風は自分より幾分か年若いのに、里の子どもたちの中でもかなり弁が立つ。勉学の嫌いな疾風が、八歳にして口から生まれたのではないかと言われるほど大人顔負けの弁舌をふるう南風に勝てる訳がなかった。
 そもそも樽の中に隠れられることを教えてくれたのは、南風の兄であり自身の乳兄弟でもある風巻なので、
「くっそー…見つけたらタダじゃおかねぇぞ、風巻!」
 年下の女児に言い返せない悔しさの矛先は何の罪もない乳兄弟へ向くこととなった。
 風巻も災難ではあるが、こうして彼の起こすトラブルに常に巻き込まれる事情の中には、己の妹がそのきっかけの一端を担っているパターンもあるとは思いもしないであろう。
(可哀想な兄様……)
 漏れる溜息とともに、微塵も思っていない哀れみの言葉を胸の内で呟きながら、南風は改めて空へと舞い上がり、その場で不貞寝しはじめた疾風を尻目に里の子らや兄、そして許嫁の捜索を再開した。



 その頃、颶嵐は里の北側にある森の入口で、近くにある枯れた大木のうろの奥まったところに潜んでいた。この場所は、先日散歩をしている時に偶然見つけた隠れ場で、次の隠れんぼの時には絶対にここに隠れよう、と心に決めていたのだ。
(ここなら、南風にだって見つけられないよね……)
 目を細めて満足そうな微笑みを浮かべながら、颶嵐は己を探し回っているであろう許嫁に思いを馳せた。
 南風は年下なのにとても聡明で、そんな彼女を颶嵐は誇らしく思っている。それに対して、自分は臆病で、気が弱い。釣り合わない自分が嫌で、卑屈な気持ちになる時もよくある。だが、南風はいつだって「他人の心に寄り添える──そんな颶嵐だから、あたしはあなたが大好きなの」と言ってくれるのだ。颶嵐は、その言葉を伝えてくれる時の南風の笑顔が眩しくて、一等好きだった。
 だからこそやっぱり、南風に良いところを見せて、褒めてもらいたい。「すごいねェ、颶嵐!こんな場所よく知ってたね!」と。ここなら絶対に見つからないし、最後に種明かしをした時の南風はきっとそう言ってくれるはず。
(疾風や風巻は、もう見つかったかな…?)
 特別仲の良い二人のことを思いながら、暗いうろの中で目を閉じて耳を澄ました。穏やかな風と葉擦れの音以外は、何も聞こえない。まだ自分の場所へ鬼は近付いて来ていないらしい。
 うろの入口に少しだけ差し込む光は、木の葉が風に揺れるのに合わせてさやさやと眩しさを変える。温かな春の陽気に誘われ、颶嵐はついうとうとと微睡んでしまった。



「兄様、み~~~っけ!」
 自宅の裏にある納戸の中で、黒い布をすっぽりと被って隠れていた風巻を見事に見つけた南風は、意気揚々と彼を覆っていた布を捲りあげて居場所を指摘した。
「ああ、見つかってしまったか」
 風巻は淡々と答えつつも、
「さすがは南風だな。目の付け所が良い」
 優しげに笑みながら、彼女を讃えた。日々賢く成長していく妹は、兄としても誇らしい。
「あとの皆は?」
「疾風はとっくの昔に。他のみんなも見つけたよォ。あとは颶嵐だけ~」
 陣地へ歩いていくと、鬼に見つかった面々がそれぞれ鞠つきをしたり砂遊びをしたりしながら全員が見つかるのを待ちわびていた。早々につかまり、待ちくたびれた疾風はいよいよつまらなそうに、
「もう飽きたぁ!まだ見つかんねーのかよぉ!」
 と投げ出した足をじたばたさせている。空を見上げると、隠れんぼを始めた頃は高い位置にあった太陽も今は山の端へとどんどん近付いている。
「そろそろ潮時だな。今日は颶嵐の一人勝ちだ」
 風巻がそう言うと、皆も口々に同意する。終わりの合図に疾風が指笛を鳴らすと、やれやれ、とばかりに子どもたちは伸びをしながら帰路に着いた。



 その知らせが風巻や南風の家に飛び込んできたのは、そろそろ寝支度をして床に着こうかという時刻だった。
「えっ……颶嵐がまだ家に帰っていない?!」
 隠れんぼの掟では、最後まで見つからなかった仲間は指笛を聞いて遊びの終わりを知り、隠れ場所を教えないようにするために、皆とは合流せず直接自宅へ戻る手筈になっていた。
 ところが、いつまで経っても帰ってこない颶嵐を心配した両親が里の中をくまなく探したものの見つからず、藁にもすがる思いで遊び仲間の子どもたちに事情を聞きに来たのだった。
 風巻は目を丸くして驚きの声を上げると、南風と顔を見合せた。不安に思ったのだろう、南風の表情が珍しく曇る。颶嵐の両親も焦燥に駆られるように二人に事情を聞いてくるのだが、彼らにも寝耳に水の話である。どうにも答えられない二人に業を煮やした颶嵐の両親は、長の館へと駆け込んで行った。
 いつもなら寝静まるはずの時間だったが、このことで里は大騒ぎとなり、そうして、松明を片手に深夜の大捜索が始まったのである。



 颶嵐が眠りから覚めたのは、身体がゆらゆらと揺さぶられる感覚に気付いた時だった。
(あれ……ぼく、今どこに……?)
 はっきりしない意識の向こうにある記憶を手繰り寄せる。確か、みんなと隠れんぼをしていて、大樹のうろに隠れて──
(そうだ、隠れんぼしてて、眠っちゃったんだ)
 どうしてここに居るかは思い出した。しかし、それと同時に今何が起こっているのかは理解しがたい。枯れたはずの木が、こんなに揺さぶられているのは何故なのか。疑問符を頭に浮かべながら、うろの入口を見遣る。ぽっかりと開いていたはずのそこは何かで埋められたように閉じられていて、その事実は颶嵐の背筋を凍らせるのに充分な状況だった。
 慌てて声を出そうとしたその時、俄に揺れが収まった。そして──
「おい、この辺りでええか?」
「ああ、ええんとちゃうか」
「よし、ほな、一旦下ろそう」
 声を潜めながら話す三人の男たちの声が外から聞こえてきたのだ。思わず颶嵐は己の口を両手で塞ぐ。小刻みに震えながら、颶嵐は思った。
(里の大人たちの声じゃない……!)
 耳にしたことのない声に戦慄を覚える。今にも恐怖で叫び出しそうな自分を必死で抑えながら、息を潜めて彼らの言葉に耳を傾けた。
「鞍馬の杉は高う売れるけど、切り出したばっかりやと水気が多くてあかん。ええとこに頃合いの枯れ木があったなあ」
「これでしばらくは食いっぱぐれんで済むわ」
「せやけどお前、こんなええ木、よう見つけたなあ」
「へへっ、昔、わしのご先祖さんがこの山に迷い込みよってな。天狗の里に辿り着いたらしいんや。すぐに天狗に追い出されてしもたんやけど、良質の杉がぎょうさん生えとる言うてな、こっそり入っては切り出して日銭を稼いどったんやと」
 ごくりと生唾を飲み下しながら、颶嵐は話を聞いていた。そういえば、里の大人たちが迷い込んだ人間を追い払うために時折里の入口近くへ飛んで行ってたな、と思い返す。今よりもっと幼い頃の記憶ゆえ曖昧なところもあるが、確かに人間が里に近付くことがあった。
 里では常に護りの結界を張っているが、均衡が崩れたり力が弱まったりするタイミングで綻びの生じるときがある。また、人間の中にも呪に耐性のある者がいるようで、偶然そういった者が綻びの隙間から入り込み、里を見つけてしまうことがあるのだ。
(この者たちは……人間なのか…?)
 里では人間に近付くことが固く禁じられていて、颶嵐も生まれてこの方、人間というものを見たことがない。疾風や南風なら興味が勝りそうなものだが、元より臆病な彼は、この偶然の出来事に対して「恐怖」の二文字以外の感情を持ち合わせていなかった。
「よっしゃ、今日はもう遅いさかいにいっぺん帰って、明日またこの木ィ取りに来よか」
 そやな、と二人も同意し、彼らの遠ざかる足音が聞こえ始める、が──
「なぁに、この崖から下に落としたら、村まではすぐや。今晩は見つからんようにここに隠しとこ」
 一人の男が捨て置いた言葉が、颶嵐を震え上がらせた。一刻も早くここから出なければ!焦る気持ちを押さえつけて、彼らの気配がなくなるまでじっと耐える。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら。
 人の気配が消え、森の静寂が戻ったことに安堵したのか、虫や鳥の声が微かに聞こえ出す。それと同時に、颶嵐は座ったままの体勢でうろの入口へと身体をずらし、
「えいっ!」
 覆い被せられた蓋を、渾身を込めて両足で蹴り飛ばした。が、健闘空しく蓋はびくともしない。えいっ、えいっ、と何度も蹴ってみるものの、杭のようなものが打ち込まれているのか、非力な彼にはどうにもしようがなかった。
「誰かぁ!誰か助けてぇ!」
 蓋を蹴りつけながら、颶嵐は悲壮な声を上げた。じわりと目頭が熱くなる。
「助けてぇ!……父上!母上ぇ!」
 精一杯の声で叫んでも、返ってくるのは風に揺れる木の葉のざわめきと虫の声ばかり。
「風巻ぃ……疾風ぇ………南風………」
 だんだんとか細くなっていく声は震え、ついには嗚咽を上げだした。大粒の涙が真っ赤な瞳からほろぼろと流れ落ち、拭っても拭っても留まることをしらない湧水のように溢れ出る。
(どうしよう……どうしたらいいの……?)
 まだものを知らない頭を最大限に働かせて考えるものの、颶嵐に妙案が浮かぶことはなく、ただただめそめそと流れる涙を手のひらで受け止め続けることしかできなかった。



 里では昼かと見紛うばかりの松明が煌々と灯され、さながら山狩りの様相である。里の者たちは総出で颶嵐の行方を探していた。
「ねぇ、兄様。どこか思い当たる場所はないの?隠れんぼ、得意じゃない」
 不安げに風巻に掴みかかる南風を制しながら、風巻は困ったように眉尻を下げた。
「……俺の思い当たるところは全て大人たちに伝えた。それでも見つからないとなると……」
「……里の外に出ちまったかもしんねーな」
 厳しい顔つきの疾風が風巻の言葉尻を継ぐ。大人たちは、子どものすることだから、と里の中だけを探しているようだ。
「もし外に出たとしたら、どこから……?」
 三人は、知恵を絞って必死で考える。
「──北側の入口はどうだ?あの道は寂れてて、あんまり人目がねぇから、今度里をこっそり抜け出す時に使ってやろうと思ってたんだ」
 生真面目な烏天狗ならば出来ない発想。破天荒な疾風ならではの思考回路である。普段はトラブルしか起こさないが、こういう突飛な場面においての疾風は何と助けになることか。
 三人は目を見合わせると頷き、すぐさま北側の入口へと向かった。

 里の結界ぎりぎりの場所で、三人は松明を片手に颶嵐の名前を呼ぶ。しかし、その声は森にこだまするばかりで颶嵐の姿は見つけられない。
「おい、いたか?!」
「いや、こっちも駄目だ」
「こっちにもいないよォ……」
 入口に集まった三人は、肩を落として空しい成果を伝え合う。と、その時である。
「──なぁ、この足跡、何だ?」
 疾風が見慣れない足跡に気付いた。天狗は皆ひとつ足の下駄を履いているが、どう見てもこの足跡は──
「これは………ゾウリとかいう、人間の履き物なんじゃないか…?」
 人間を見たことはないが、向学のために、彼らの遺物とされるものを見せられたことがあった。その中にこんな跡を残しそうな履き物があった気がする。記憶を頼りに風巻はそう述べた。
「この足跡、たどってみようぜ!」
 好奇心なのか、急いているのか。どちらともつかない弾む声を上げる疾風の提案に二人は同意し、足跡の続く森の小道へと歩みを進めた。



 泣き疲れて眠ってしまったのだろうか、気が付いた時にはすでに夜明けを報せる鶏の声が遠くから聞こえていた。颶嵐ははっとして飛び起きたが、ここはうろの中。強かに頭をぶつけてしまった。
「うっ……!い゛た゛い゛よ゛ぉ゛……」
 泣き腫らした眼に、またもや涙が滲む。すぐに熱を帯びて膨らんできた患部を両手で押さえながら、颶嵐は情けない声を上げた。その時である。
「………らしー!ぐらし~~!」
 少しずつ近付いてくる名を呼ぶ声。この声は──南風?!聞き慣れた声に安堵の表情を浮かべ、返事をしようと思いっきり息を吸い込んだ瞬間、颶嵐は目を剥いた。
「……あれやあれ!あの木ィやで!」
 逆方向から、あの人間たちの声が聞こえてきたのである。
(どっ、どうしよう……このままじゃ、南風が見つかっちゃう………)
 口から心臓がこぼれそうなほど脈打つ。ぐるぐると堂々巡りする考えは一向にまとまらず、そうしているうちに、
「…ん?子どもの声?」
 男たちが南風の声に気づいてしまった。バタバタと走る音が遠ざかったと思った直後、次の瞬間には南風の悲鳴が聞こえてきた。
「ヤだーー!離してェ!!」
「何やこのガキ。羽生えとる」
「烏天狗の子どもや!これは……杉どころやないわ!見世物小屋に高う売れるでぇ!」
 下卑た笑い声が颶嵐の目の前で響く。男たちに捕まったのだろう、南風がもがく度に起こる衣擦れの音や叫び声が何度も聞こえるが、颶嵐には驚きと恐れで声さえ出せない。
(どうしよう、このままじゃ南風が……)
 滂沱の涙に震えながら、颶嵐は目をきつく閉じた。
(ぼくが、南風を助けなきゃ………!ぼくが!)
 カッ!と見開いたその眼に、紅蓮の炎が揺らめいた。

 ──バキィッッッ!!!!!
 乾いた音が森に響き、男たちの背後にあった杉の枯れ木が四散する。突然の出来事に振り返った男たちの視線は、黒い残像に導かれて上方へと注がれた。そこには、凄まじい力で枯れ木を打ち破って飛び上がった颶嵐が、燃えるような気を纏い、宙に留まっていた。
「南風を……離せ…………」
 戦慄く男たちに、まだ幼さの残る声が冷淡に言い放つ。宙に浮かぶ颶嵐の足元から巻き起こるつむじ風が幾つか向きを変えて男たちの方へと流れていくと、その風は鎌鼬のように男たちの皮膚を薄く切り付けた。つぅ、と彼らの頬や二の腕から血が滴る。
「うわああぁぁぁぁ!ばっ、化け物ぉぉぉぉ!」
 叫んだと同時に南風を解放すると、男たちは転がるように元来た道を逃げて行った。
 颶嵐はまだ興奮冷めやらぬようで、荒い息を吐き出しながら爛々と眼を朱に燃やしている。触れればこちらが燃え尽きそうな程に力の漲った颶嵐のこんな姿を、南風はかつて見たことがなかった。
 ふう、ふう、と手負いの獣のような吐息が続く。よく見ると、だらりと下げられた手がほんの少しだけ震えていた。臆病で優しい彼のことだ。きっと、すごく怖かったのだろう。でも、彼は戦ってくれた──あたしのために。
 南風は立ち上がると彼に近寄り、少し高い位置にある彼の足に縋りついた。
「颶嵐……もう大丈夫、あたしは大丈夫だから」
 南風の目に、はらはらと涙が溢れた。その声と温もりを感じたのか、はたまた力を使い果たしたのか、それとも緊張の糸が切れたのか。颶嵐はぐらりと姿勢を崩し、そのまま地に落ちて倒れ伏した。
「あっ、風巻!居たぞ!こっちだ!」
 そこに、南風の悲鳴を遠くで聞きつけた疾風と風巻が、探し回った末に漸くこの場所を見つけて現れた。
「颶嵐……!」
「だっ、大丈夫なのか?!倒れてるぞ!」
 片や安堵の、片や不安げな声を上げた二人に、南風もほっとしたように涙を拭う。
「南風、何があった?」
 膝をつき、顔を覗き込んで冷静に問う兄の声に、南風は苦笑を浮かべて首を横に振った。
「……颶嵐が倒れてたから、びっくりして悲鳴あげちゃった。でも、大丈夫。ちゃんと生きてた」
 真実は告げず、南風はそう言うと「さァ、帰ろ!」と笑顔で立ち上がった。疾風は風巻に松明を預けて颶嵐を背負うと、烏の姿に転じて里へと向かった。南風も口に松明を咥えると、烏に転じてそれに続く。残された風巻は、ほっと胸を撫で下ろしながらも、足元に散った木屑を見てほんの少し首を傾げた。
(颶嵐は…どこに隠れていたんだ?何故こんな場所に……)
 謎は深まるばかりだが、明日になれば本人の口から事情を聞けるだろう。見上げれば、木々の間から淡い色の木漏れ日が差し込んできた。松明を土に擦り付けて火を消すと、烏に転じた風巻は松明の木を足で掴み、明けを迎えた空に飛び上がった。



 後日、颶嵐はこう語った。
「木のうろの中に隠れていたら、つい眠ってしまった」
「人間が里に侵入し、その木を盗もうと持ち去った」
「人間が去った後、どうにかして木を打ち破り、外に出たところで力尽きた」──と。

「マジかよ~!オレも人間に出会ってみたかったなぁ!」
「疾風……そういう問題ではないだろう」
 相も変わらず楽観的な疾風に、風巻が呆れて溜息を漏らす。
「ふふっ、とってもとっても怖かったけど、ぼくにとってはとんでもない大冒険になったよ」
「とにかく、無事で良かった」
「もう心配させんなよなー!」
「うん。ありがとう、風巻、疾風」
 こっぴどく叱られるかと思いきや、父も母も、里の皆も、無事に帰ったことだけを労ってくれた。颶嵐は照れくさそうにはにかむと、ちらりと南風に目線を遣る。南風は、あの時の颶嵐の様子を誰にも話していないようだった。兄である風巻にさえも。
 大人たちに呼ばれ、風巻と疾風が席を外す。二人きりになったところで、向かい合って座る南風に颶嵐は問うた。
「南風……あの時のこと──」
 言いかけたその言葉を遮るように、南風は微笑んで己の唇の前に人差し指を立てた。
「颶嵐はさァ、あたしのこと護ってくれたんだよね。あの時の颶嵐、すっごく、すっごくカッコよかったぁ……」
 うっとりするように目を細める南風の言葉に、颶嵐は目を瞬くと、一気に頬が熱くなるのを感じた。所在なくなり、つい目を逸らして俯いてしまう。
「きっと、颶嵐はあの力をあたしのために使ってくれるんだよね。だから、里のみんなには教えないの。あたしだけの秘密にするの」
 きっぱりと言う南風にもう一度目線を戻すと、彼女の真剣な眼差しが颶嵐を射抜いた。
「あいつらを殺さないように、ちゃんと手加減したんでしょ?」
「………………うん」
 南風は立ち上がり、颶嵐の後ろから彼の頭を包み込むように抱き締めた。
「……優しいね、颶嵐。人に寄り添えるあなたが、ずっと、ずーっと、大好きだよ」
 くすぐったい言葉が耳元で聴こえる。抱き締める南風の腕にそっと両手を重ねて、目を閉じた。
「ありがとう、南風。ぼくも、大好きだよ」
 恥ずかしいけど、とても嬉しくて、誇らしい。南風が褒めてくれる──それだけで、気の弱い臆病な自分でも、何だか強くなれる気がした。

 ぼくの中にある、この強大な力。今はまだ上手く使いこなせないけど、いつかきっと、大切なものを──大切な人たちを護るために、この力を使おう。ちっぽけなぼくだけど、きっと、この手で、護ってみせる。

 突出した潜在能力を持ち、いずれ烏天狗の里を率いる長となる颶嵐の決意を祝うように、万物に恵みを与える心地良い風が優しく包んだ。
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