第二幕「月凪」
禁域に住んでいたのは、美しい女だった。風巻と謎の女性との出会いを描く第2話・第3話・第4話。
Ⅰ
――あの甘やかな日々を『永遠』に出来るならば、誇りすら捨て去っても構わないと思った。
「おい、風巻!」
「…疾風。」
名を呼ばれ振り返る。駆け寄る乳兄弟の幼さを残した面立ちが、その幼さを更に際立たせるように悪戯な笑みを湛えている。それを見ただけで、風巻はうんざりした表情をあからさまに浮かべて疾風から視線を逸らした。
――こいつの事だ、どうせまたくだらない事を思いついたんだろう。で、結局何だかんだと巻き込まれて、長に拳骨を落とされる。
こう毎回同じ事を繰り返されては、いくら齢十二歳にして沈着冷静だと誉れ高い風巻でも露骨に厭な顔を浮かべてしまう。
「ンだよー、不景気なツラ浮かべて!」
「…何だ。またお前が言うところの『面白いモノ』でも見つかったか。」
『面白いモノ』だった例しはないが…、と心中では毒づいたが、目の前の少年はそんな事はお構いなしとばかりににたりと口角を上げた。
「お、話が早えーな。…ちょっと耳貸せよ。」
きょろきょろと辺りの様子を窺う様子を見るに、今回も里の中では大っぴらに話せない内容らしい。風巻は大袈裟に溜息を吐き出してから、渋々耳を差し出した。
「山の麓に、いつも『外』に出る時大人達が使う道、あるだろ?」
「ああ…それがどうした?」
ひそひそと耳打ちながらも、疾風は一向に悪戯っ子の表情が消えない。確か前回は、二十歳を過ぎるまで通ってはいけないその道に忍んで『外』に出ようとした所を、長に見つかって大目玉を食らったのだった。そう言えば、この時も疾風に付き合わされたんだったな。思い出すだに気が重くなる。
「あの道の途中にある別れ道の先、入ったことあるか?」
「いや、無い。」
疾風が言う場所は、所謂禁域。里の者の出入りを固く禁じた場所だった。当然そんな場所に行ったことがあるはずもなく、風巻が頭を振ると、疾風はさも嬉しげに相好を崩し、更に小さな声で言った。
「オレ見たんだ。禁域に、ヒトの女がいる。別れ道の向こうに入っていったんだ。ウソじゃないぜ。」
「――まさか。」
くっ、と鼻で笑ったのを目ざとく見ていた少年は、「そのまさかなんだって!」と弁解するように言った。
「なぁ、オレどうしても見たいんだよ、あの向こうに何があんのか。お前だって、気になるだろ?手の届く距離に、人間がいるんだぜ?!」
確かに、と風巻は内心頷いた。烏天狗は、必要以上に人間を避ける。他の妖に比べて人里に近い場所に棲んでいるにも関わらず、である。それが何故なのかは知らないが、長をはじめ、大人達は決して人間を見せようとしなかった。当たり前のように風巻や疾風は人間を知らなかったし、そうやってひた隠しにされる事で却って好奇心を煽られる。他ならぬ風巻も、一度ニンゲンと言うものを見てみたいと密やかに思っていた。だからこそ、怒られると知りながら疾風の無鉄砲な計画に付き合ってしまうのである。
「…仕方ないな。わかった、付き合ってやる。」
「やりィ!」
パチン、と指を鳴らして喜ぶ疾風に、風巻は僅かな笑みをその双眸に浮かべた。
▼
丑三つ時。里に生息する虫も羽音をたてぬ夜更けに、幼い天狗達は動き出した。
「…どうだ?」
「大丈夫だ、気配はねぇ。」
「よし、月があの雲に隠れたら…行くぞ。」
薄い猫の目のような月が雲に隠れた。それを合図に、二人は闇夜を駆け抜けた。子供とはいえ、彼らも天狗の端くれ。翼をはためかす度、小気味よく風を切る音が小さく響いては空気に溶けた。
四半刻も待たずに岐路に差し掛かると、二人は顔を見合わせ、互いに頷きを交わし本道に比べて細く険しい道へと入っていった。――禁域へと続く、未知への旅路へと。
……どれ程飛び続けただろう。夜の闇に紛れて鬱蒼と茂る林を抜けると、不意に並木が切れ、開けた場所に出た。痩せた土地、突然荒野に降り立ったような心持ちさえするその真ん中に、淋しげにぽつりと佇むあばら家があった。
「あれ……か?」
「…そうみたいだな。」
見ろ、と顎で家の裏を示す。そこには、女の衣と思しき衣服が数枚夜風にはためいていた。
「……。」
「……。」
二人は無言でそれを眺めていたが、おもむろに風巻が家の戸口へと歩み出した。次いで、疾風もその足取りを追う。
小さな窓から中を覗き込む。明かりの消えた室内。差し込む僅かな月明かりで布団の膨らみが見える。それを確認して、音を立てないように細心の注意を払いながら、扉を開けた……つもりだった。
「!!」
不意に戸が引っ張られるような感覚。目に映ったのは、しゃらりと揺れる衣の裾。
「よく来たね、天狗の子等。」
穏やかな声音に顔を上げると、流麗な面立ちの人間が微笑みを浮かべて立っていた。
「……!」
風巻は驚嘆し、声も出ない。そんな状況も知らず、後ろから安穏と覗き込んだ疾風が目を剥いて後退さった。
「うわわわわ……!」
「疾風!」
怯え、今にも逃げ出さんばかりの疾風に、思わず振り返って制止の声を掛けてしまう。途端に、くつくつと笑いを堪える音が背後から聞こえ、風巻はまたその女に向き直った。
「ほら、お入りよ。早く入らないと、見つかってしまうよ。」
女の言葉に、一瞬きょとんと目を丸めた二人は、転がり込むように招き入れられた家の中へと入った。思ってもみなかった出来事が起こったが為に忘れていたが、そういえば見つかったらヤバいんだった。
家の中には先程覗き込んだ時には点いていなかった明かりが灯り、風巻の首を傾げさせる。女は二人に温かい飲み物を差し出すと、柔らかそうな毛皮の掛かった座椅子に腰を下ろした。自分達が座るそれも同じ種の材質で出来ているのだろう。ふかふかと綿が詰められて心地良く、うっかりすると寝入ってしまいそうな程だ。
「…さて。改めてようこそ、天狗の子よ。」
風巻はじっと女を見つめた。年の頃は二十八、九といっところか。豊かな黒髪を後ろで纏めながら、なお余りある髪を無造作に背に垂れ流している。こうやってうじっくり見てみて初めて、女が美しいことに気付く。
(こんなに美しい者は、見たことがない…。)
天狗の数え年とはいえ、十数年生きてきた程度でこんなことを思うのもおこがましいが、それが風巻の本音だった。
「あんた達が知りたいことを教えよう。何でもお訊きよ。」
胡散臭げに甘い匂いがする飲み物を嗅いでいた疾風は、その言葉にぴくりと反応した。
「何でも?あんた、何でもわかるってのか?」
「そうさね。過去に起こったこと、これから起こるだろう事。大概の事はね。」
その言葉に、二人は唖然としてしまった。過去も、未来も――
「何でも…」
「わかるのか?ホントに?!」
疑わしげに、片や瞳を輝かせて言う二人の様子に、また女はくつくつと咽喉を鳴らした。
「面白いね、あんた達は。わかってたけど、やっぱり反応を目の前で返してもらった方が楽しい。」
女の目尻が、柔らかに下がる。
「訊ねたい事があるなら早くおしよ。あと少ししたら、あんた達の長がやってきてしまうよ。」
「「えっ…。」」
疾風と風巻は顔を見合わせた。
「マジかよ…。――どう思う、風巻?」
「…真実だろう。この者は俺達が扉を開ける時まで知っていた。」
淡々と告げる風巻に、疾風は納得したように頷いた。
「…一つ、訊いてもいいか。」
風巻が言うと、女は笑みで応じた。
「あんたは、ヒトか?」
問いに、僅かに俯いて口元を緩ませる。
「人であり、人ではない。」
「…では、何だ。」
「人にも天狗にも成れぬ者さ。」
「……?それはどういう意味…――!」
言葉は途切れた。女が立ち上がり、窓際に佇んで目を眇める。
「時間だ。追っ手だよ。」
指し示す先に、小さな羽影が見えた。
「やっ…べェ、風巻、行こうぜ!」
慌てて立ち上がる疾風が袖を引っ張る。だが、風巻は渋った。
「まだ、答えを聞いていない…。」
「バカ言ってんじゃねーよ!禁域に来てんだ、今度は幽閉されちまうぞ!」
焦りの所為か、早口に疾風がまくしたてても、頑として風巻は動かなかった。
――こンの強情っ張り!こうなりゃ力ずくで…!
堪らず風巻に掴み掛かろうとする手を、女が制した。女は、風巻にゆったりと視線を移し、
「今逃げないと、もう一生ここには来れなくなるよ。それでもいいなら、其処においで。」
やんわりと言い放った。女の言葉に顔を上げた風巻は、漸く納得して立ち上がり、疾風の後を追って戸口へと向かった。
「家を出たら、体勢を低くして森へ抜けな。この時間は霧が出るから、あんた達くらいの背なら見つかることはないだろう。」
助言を受けて、二人はこくりと頷いたが、風巻だけは戸口で立ち止まり、女を振り返った。
「……俺は、風巻。あいつは疾風という。あんたの名は?」
「――花信。」
「……カシン…。」
女が名乗った名を呟いて、風巻は彼女を見据えた。
「花信、世話になった。……また来る。」
それだけを伝えると、風のように地を駆けて薄靄の中に姿を消した。
戸口でひらひらと二人を見送っては手を振り、花信は扉を閉めた。その扉に背を向けて凭れ掛かる。
「――運命の輪は回り出した。永い時を経て絡み合う宿命の糸…。」
呟いては、緩く瞼を閉じる。
「…また会おう、烏の子よ。」
花信の口元には、どこか嬉しげな笑みが湛えられていた。
Ⅱ
花信の家から逃げ帰った翌日。里は一つの話題で持ちきりだった。
『禁域に足を踏み入れた者がいる』
風巻と疾風は寸での所で難を逃れ、さも館で寝ていたように振る舞うことで疑いも掛けられなかった。疾風は安堵し、運が良かったとその事実を鵜呑みしてしまっていたが、風巻の心中には疑念が渦巻いていた。
――あれ程大層な出動が掛かっていたのに、何故自分達は疑われなかったのだろうか。
大人達を見ていても、噂が尾びれ背びれを付け始めている割には誰かに事情を聞いている様子も無いし、穿った見方をすれば噂を止めずわざと話だけを大きくさせているようにも思える。普段里で行なわれる有事の対処法からは考えられない程、軽い扱いだった。
(何をそんなにひた隠しにする必要があるんだ…?花信に、何か秘密があるのか?あるとしたら……)
――里を根底から揺るがせるような、重大な秘密。
考えが深みに至る程、風巻は再び花信の元を訪れたいという欲求に駆られるようになった。全てを見通す力を持った彼女なら、或いはこの質問に答えてくれるのではないか。…かと言って、何の疑いも抱いていない疾風を誘って行くには、危険も多いし、もし失敗しようものなら彼を巻き込んでしまう結果になりかねない。
悩んだ末、風巻は一人で花信の元へ行く事を決心した。決行は、夜。次の新月の暗闇に紛れて――。
▼
噂のほとぼりも冷めた新月の頃、再び風のように翼を駆る影が林道を抜けてあばら家の前に降り立った。扉を開けると、自分の訪問を案の定知っていたらしい花信が笑みを湛えて招き入れてくれた。
「暫くぶりだね、風巻。」
「突然訪ねてきたりして…すまない。」
目礼すると、花信は含み笑いを浮かべながら毛皮の掛かった座椅子に腰掛けた。
「そこにお座りよ。」
指し示された向かいの席に着くと、花信は机に頬杖をついて首を傾げる。一向に消えない笑顔は、自分がここに来た訳を見抜いているからだろうか。そう思うと、相手の思うつぼのようで些か居心地の悪さを覚える。
「…さて、今日は何をしに来たんだい?」
わかっているくせに。内心舌打ちをしながらも、風巻は淡々と返す。
「先日聞きそびれた質問の答えを聞きにきた。」
表情一つ変えずに話を聞く目の前の女は、小さく相槌を打った。
「人にも天狗にもなれない。――ならば、あなたは何者だ?」
「…私からも訊ねよう。あんたは何故その答えを知りたがる?」
逆に質問され、風巻は面食らった。
「前にあんたが来た時より、今日の訊き方には深みがある。…里の謎を解く鍵を、私が持っていると思っているね?」
柔らかな口調で続けられる言葉は、逐一図星を言い当てる。この女――やりにくい。
「……その通りだ。俺は、知りたいんだ。全てを。」
そう、全てを。
「過去を、未来を……全てを知るあなたなら、わかるはずだ。」
真剣な眼差しで花信を見つめる。自分を見据える彼女と目が合って、何だか切迫されたような感情が沸き上がってきた。きっとそれは、花信が初めて自嘲染みた――何かを諦めているような翳りを瞳の奥に浮かべたから。僅かな戸惑いを覚えながらも、風巻は続けた。
「この間の件だって、絶対大人達には俺達が犯人だって目星が付いているはずだ。なのに、何事も無かったみたいに…。」
「――まず、ここはあんた達にとってどういう場所だい?」
「……禁域。」
「そう。禁域――入ってはいけない場所だ。何人も、禁域を侵してはならない。もし侵入者があれば…つまり、罪を犯せば、里ではどうなる?」
「誇りを汚したとして、『煉獄の檻』に幽閉される。」
答えると、花信はふ、と目を細めて「賢しい子だね」と零した。
「そう。だからあんた達を追及しなかったのさ。」
「?」
「里の次代を担う若者を、『檻』に入れる訳にはいかないからね。」
「――俺達が、か?」
こくりと頷いた花信は、立ち上がり窓辺から月の無い空を見上げた。
「先日長が来たのは、追っ手としてではない。私の託宣を聞きに来たのさ。そして――」
言葉を一旦止め、風巻を見遣る。穏やかな笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「あんた達がこの先里を支える子等だと、言った。だからだよ。」
「…ちょっと待て。花信が託宣をし、それを長が信じる程力を認められているのに、何故里に住まないんだ?」
花信の言葉を遮って、沸き上がる疑問を口にする。それほどまでに里に必要な者が、こんな外れに住まわされているなどとは、おかしいではないか。
すると、女は伏し目がちにまた自嘲染みた表情を浮かべ、言った。
「――私は、咎人の子だから。誇り高い天狗が、咎人の力を借りて里を護ってるなんて、知られたくないんだろうよ。」
咎人。その聞き慣れぬ響きに風巻が首を傾げると、ゆるりと視線をよこして花信は言葉を落とした。
「私は、人と天狗が禁を犯し交わった末に出来た、忌み子なんだよ。」
「――…っ!」
風巻は目を剥いた。稲妻が爪先から脳天を駆け上がったような衝撃。その言葉一つで、全てに合点がいった気がした。
「……里が何故頑なに人間との交流を断たせようとするのか、わかっただろう?」
「――…ああ。理解した。」
「…やはりあんたは賢しい子だ。」
項垂れる風巻の頭を、花信は優しく撫でた。異種交配の末、稀有な力を得た子を迫害してもなお、その力無しでは里を維持できないとは――何という皮肉。風巻はぎりぎりと奥歯を噛み締め、遣り場の無い怒りを抑えた。里の、天狗の汚さが呪わしい。己の身体に流れる天狗の血さえ――。思わず握り締めた拳を机に打ち付ける。
「あんたが自分を責める事は無い。全ては、宿命の輪の内にあるのだから…。」
頭を撫でる手を止めず、花信は述べる。
「――だから、いいんだよ。」
それはまるで、自らに言い聞かせているような言葉。諦めを含んだそれを聞いて、一層風巻は胸を痛めた。
(俺がぬくぬくと里で暮らしてきた間、この女は一体どれほど辛い思いをしてきたのだろう…。)
『人にも天狗にも成れぬ者』。どちらの種族でも忌み嫌われ、この世の創世から終局まで全てを――ひいては自らの生死まで――見通す力を望みもしないのに与えられ、必要とされるのは自分自身ではなく、その呪われた力だけ。
(そんな…そんな理不尽なことがあっていいのか?!)
風巻は女を見上げる。彼女は今なお穏やかな微笑みを湛えていて、その芯の強さに風巻は惹かれるものを感じた。
「……帰る。」
突然立ち上がった風巻を見て花信は目を丸めたが、風巻は目も合わせずに踵を返した。
「…もう、ここには来ない方がいい。」
背に投げ掛けられた言葉に、風巻は僅かに後ろを振り返った。
「……それも予言か?」
「そんなつもりで言った訳ではないけどね。」
微苦笑で口元を歪める花信に、
「…来るか来ないかは、自分で決める。」
淡々と言い放った風巻は、振り返る事無く家を出て霧の濃い道を走り去った。
誰も彼女を必要としないなら――俺が、必要としてやる。
『誇り』を笠にきて、その実、誇りなど潰えた里に向かって翼をはためかせながら、禁域に住む咎人を想った。
未だ甘い痛みの残る胸元を掴む。自らの心の内に芽生え出した、感じたことのない思いに身を委ねる。
知らぬ間に瞳から溢れていた雫が、風に吹かれては散っていった。
Ⅲ
その知らせが里中を駆け巡ったのは、ある日の昼下がりのことだった。空は青く澄み渡り、雲一つ無い晴天が頭上に広がっている。それとは裏腹に、里には俄かに暗雲が立ちこめ始めていた。
「風巻ッ、いるか?!」
慌てた様子で館に飛び込んできた少年は、戸口に立つなり部屋中に響かんばかりの大声で乳兄弟の名を呼んだ。すると、直ぐ様奥の部屋から齢十程の少女がゆらゆらと小さな身体を揺らしながら姿を現した。
「何よォ、疾風。そんなに大きな声出さなくても聞こえてるよォ?」
耳の穴を小指で塞ぎ、至極迷惑そうに彼を迎えた少女は、幼いながらも利発そうな切れ長の瞳を瞬かせる。
「また兄様を面倒に巻き込むつもりィ?」
「違うって!南風、今日はマジで一大事なんだよッ!お前の兄貴はどこだ?!」
あまりにも珍しい切羽詰まった疾風の様子に面食らいながらも、彼の訪問が尋常の話ではない事を悟ったのだろう。南風は「ついてきて」と疾風を招き入れると、彼を風巻の部屋へと導いた。
風巻は虚ろな瞳で窓際の桟に腰掛けて、どこまでも晴れ渡る空を見上げていた。
(どうすれば…彼女をあの束縛から解放出来るんだろうか。)
花信の家から帰ってからずっと、そんな考えばかりが頭の中を支配している。
あの能力を消す為には。
人として、或いは天狗として皆が受け容れる為には。
その方法を、ただひたすら模索していた。しかし、考えても考えても妙案は浮かばず、却って自分の無力感が増大するばかりだ。重たい溜息を一つ吐き出す。諦めにも似た思いが脳裏を掠めた時だった。
「兄様。入るよ?」
妹の声にぴくりと肩を震わせると、緩慢に扉へと視線を遣る。開いた戸の向こうには、憔悴しきった風巻を眺め遣る二人の姿があった。
「…アイツ、どうしたんだ?」
「…さァ?あたしにはわかんない。十日程前から、ずっとこうなの。」
小声で耳打ちした言葉に困惑顔で肩を竦める南風から、窓際に座る少年に視線を移す。その覇気の無い痛々しい姿を瞳に映すと、疾風は僅かに目を眇めて視線を逸らした。
(何があったんだよ、風巻…。)
オレ達、乳兄弟なのに。何も話してくれない事が、ひどく疾風の胸を締め付ける。だが、此処に来た目的を思い出すと、つかつかと風巻の目の前まで進み出ていき、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら言い放った。
「お前が何を悩んでるかは知らねぇ。だけど、お前がそうやって引き籠もってる間に、里はすげぇことになってるぜ。」
「……? …何が起きた?」
「……長が死んだ。ついさっきだ。」
「!!」
淡々と語る言葉に、嘘は無い。疾風の悲愴な表情から、それが真実であることがまざまざと伝わってくる。
「…そう、か…。長が…。」
口元に手を遣ると、風巻は眉を寄せた。長が死んだ。ならば、次に長となる者が選ばれるはず。多分、死んだ長の右腕だった男・風見で決まりだろう。彼なら名実ともに長に相応しい。
「…次の長は、もう決まったのか?」
わかりきったようなものだが、訊いておいた方が良い。安易に答えの想像がつく質問を投げ掛けながら疾風に視線を向けると、予想とは違った反応が返ってきた。疾風は俯き、返答を躊躇っているかのようだ。
「…どうした?疾風。」
一向に口を開かない彼の様子に、風巻は眉間の皺を深くした。
「それが、一大事だってことなんだよ。次の長は風見の兄貴じゃねぇ。」
(風見ではない…?それでは――)
「一体誰が……。」
「――颶嵐が、次の長に選ばれた。」
「なッ……!」
風巻は思わず立ち上がり、目を剥いた。颶嵐は、疾風と同じ乳兄弟のようなもので、幼い頃から共に育ってきた仲間だった。自分も含めて仲間達は皆年若く、天狗としても半人前だ。それに輪をかけて颶嵐という者は気が弱く頼りが無い。彼が長となることを想像できた者が里にいただろうか。否、いるはずがない。里に住む者にとっては、まさに青天の霹靂の人選だった。
「颶嵐が……長…。」
愕然と地に膝をついて風巻は呟いた。脳裏に蘇るのは、花信の言葉。
『あんた達がこの先里を支える子等だと、言った。』
里を支える子――ひいては長を支えていく者。若長が颶嵐だとするならば、合点がいく。答えを導きだした瞬間、風巻の背を薄ら寒い何かが駆け抜けた。
「……ちょっと、出てくる。」
不意に立ち上がり、風巻は戸口へと足早に歩き出した。
「お、おい!どこ行くんだよ風巻!」
慌てて呼び止める声も聞かず、風巻は部屋を後にした。向かう先は一つ。――花信の家。
▼
無我夢中で空を駆けた。昼日中に禁域へ行く事は自殺行為ではあったが、里は長の逝去と意外な若長の選出で見張りも手薄になっているらしい。幸いにも風巻は見つかる事無く花信の家の前に着くことが出来た。
「花信!俺だ。風巻だ。聞きたいことがある!」
焦っている所為か、無意識に声を荒らげてしまう。中から聞こえた「お入り」との声に、待ち侘びたかのように扉を開けた。
「ふふ、あんたのそんな慌てた顔、初めて見るね。」
いつものように座椅子に腰掛けたまま、花信はやんわりと微笑んだ。
「……長が死んだ。」
「知ってるよ。」
「…次の長も決まった。」
「…颶嵐。――違うかい?」
やっぱり。心の中でそう呟き、忌々しそうに唇を噛んだ。花信の変わらぬ笑みに空恐ろしい気持ちすら覚えながらも、その一方で全てが視えてしまう彼女の痛みも感じて複雑な感情が巻き起こる。
「――何故、颶嵐なんだ…。」
独り言とも取れる呟きに、花信は立ち上がり、風巻の目の前に歩み寄った。
「――真実を伝えるのは、時に残酷だけど…あんたが知りたいなら教えよう。」
どうする?とでも言いたげな眼差しに、風巻は頷いた。知りたい。たとえそれが痛みを伴う答えだとしても――。
「……あなた一人が、残酷な未来を背負うことはない。だから、教えてほしい。」
風巻の言葉に一瞬目を丸めてから、花信は微苦笑を浮かべ、言った。
「長の亡き今、里で誰よりも潜在能力が強く、統べる力を持っている。それが颶嵐という少年なのさ。」
「…颶嵐には悪いが、俺にはあいつがそれ程強い力を持っているようには見えない。」
「潜在能力と言っただろう?彼は、長になることで強い力を発揮するようになる。そういう星の下に生まれついているのさ。」
風巻の返答を嘲笑う事無く、静かに述べる花信の言葉は、すとんと風巻の内腑に滑り落ちた。
「では、里を担う子というのは、――俺と疾風か?」
にたりと笑みを深めた花信は、目を細めて風巻を見据え、「ご名答」と言った。
「あんた達は里を担う。颶嵐という長と共に。そして、いずれは烏天狗という閉じられた種族に新たな息吹を吹き込むことになる。――今、私があんたに言えることはここまでだ。」
そこまで言うと、花信は踵を返して再び座椅子に着いた。立ち尽くしたままの風巻は、彼女の一挙一動から目を離さない。あの笑顔の裏に隠された彼女の本心の在処を、懸命に捉えようとしていた。
「…どうして、今はそこまでしか教えてくれないんだ。」
だが、見えない。彼女の心は深い霧に覆われている。悔しさともどかしさが胸を突き上げた故か、風巻の零した言葉は弱く震えていた。
「…全てを知って、どうしようっていうんだい?未来なんか、わからないから楽しいんじゃないか。」
花信は淡々と言いながらも、どこか憂いを含んだ表情を浮かべた。風巻は見逃さなかった。――その奥にある、自嘲にも似た彼女の姿を。
「未来を知れば、あんたは未来を変えようと行動するだろう。だけどね――」
言葉はそこで途切れ、花信の視線が揺らいだ。一瞬の躊躇い。緩やかに花信の瞼が下りて、きつく閉じられると、静かな声が室内に響いた。
「……変えようとした未来だって、結局は決められた運命の内なんだよ。」
――全ては無駄なこと。懸命の努力も、死を覚悟するような決断も、決められた道を辿っているに過ぎない。何かに心を動かしたって、夢を抱いたって、私の未来は既に定まっている――。
「…未来に希望などない。そう言いたいのか。」
どれ程の静寂が続いただろうか。静けさを切り裂くように少年が落とした言葉に、花信は顔を上げた。
「未来が決められていることはわかった。だが、それを理由に全てを諦める必要があるのか?」
「……。」
「あなたにだって…幸せを感じる権利があるはずだ。」
震える拳を、きつく握り締める。花信を見据え、風巻は胸に渦巻く熱情を必死で抑え、努めて冷静に振る舞った。
「あなたは今、幸せか?」
「――いや。」
花信はゆるゆると頭を振る。
「生まれてから一度も、幸せだと感じたことはない。」
その言葉を聞いた風巻は、切なげに眉を寄せて花信の目の前に進み出た。
「……あなたに未来が視えるなら、俺が今から言おうとしている事もわかると思うが――敢えて言わせてもらう。」
跪き、花信の手を取る。覗き込むように彼女を見つめながら、風巻は伝えた。
「あなたが俺達に幸せであれと願うように、俺はあなたに幸せを感じてほしい。――先に視える世界が大切なのではない。『今』幸せであることが大切なんだ。」
支える手の甲に口付けを落とした。花信の指先が、僅かに震えているように感じたのは気のせいではないはず。風巻は顔を上げ、花信の目を見た。
「――視えていた言葉と、違わなかった。一言一句。それなのに……」
花信の頬に伝う雫を見ると、風巻は手を伸ばし優しくそれを拭ってやった。
「不思議だね。実際にあんたの口から聞いたら、涙が出てくるなんて…。」
口元を歪ませて不器用に笑う花信の笑みは、今まで見たどの笑顔よりも『人間』らしかった。風巻は目を細め、初めて見る本当の彼女に優しく声を掛けた。――愛しむように、包み込むように。
「たとえ定められた未来でも、知っているのと体験するのでは大きく違う。」
花信、俺は――
「孤独だったあなたには、それを実感できるだけの時間が無かったんだ。」
俺は、あなたを――
「……もう、あなたは独りじゃない。」
あなたを、愛している。
心の内で唱えた言葉は花信に届いたのだろうか。それは、わからない。だが、花信が浮かべる満面の笑みを見ることができた――それだけで、風巻は満足だった。
柔らかに吹く風が二人の髪を嬲る。皮肉にも、その風がこれから起こる嵐の予感を告げることは無かった。
Ⅳ
颶嵐が長に就任して、早二か月が過ぎた頃、疾風の元にある書簡が届いた。その手紙は節で割られた竹の筒に収められていて、筒には赤い縄紐が三重に巻かれてから結ばれている。明らかに年若い疾風宛てとは思えない代物だ。
普段、手紙の遣り取りなどまずしないし、手紙があったとしても、三つ折にした紙を麻紐で結んだだけのごく簡易な書簡を使う。それが、こんな畏まった形式の書簡が送られてきたものだから、疾風は正直戸惑いを隠せなかった。
(これって…。)
手の内で筒を弄びながら、暫し悩む。赤い紐は長の印し。つまり、この手紙は長からの――颶嵐からの手紙なのだ。
(何だよアイツ。長になったからって、こんなまだるっこしい手紙の寄越し方する必要ねぇだろーが。)
長になったとはいえ、幼馴染みであることに変わりはないはず。そんなに長になったのが嬉しいのかねー、と辟易したように肩を竦めた。
何の気無しに筒を開けて中身を確認して――疾風は思わず筒を落とした。
『今宵より新月の晩毎に禁域の見張りを命じる。不審な者が居れば即刻捕らえよ。』
――それは、疾風が受け取った初めての辞令だった。本来ならば大人にしか与えられないはずの仕事を貰えたのだ。…認められた!嬉しさで飛び上がったのも束の間、新たな疑問が脳裏を掠めた。
書簡をよく見ると、颶嵐の手蹟では無い。そういえば、と思い返してみる。若き長には先代の右腕・風見が相談役として彼の傍らについているのだった。
(何だ……?よく見りゃコレ、風見の兄貴の字じゃねーか。)
そう、読み返せばその字は明らかに颶嵐ではなく、風見の手蹟なのである。…何か裏があるな、これは。眉をひそめ、書簡の内容を疑いながらも、疾風は腹を括った。この手紙の真偽は別として、長の印が巻かれた書簡を受け取ったのだ。一介の天狗である自分には、少なくとも長からの命令を無視することは出来ない。
(――禁域、か…。)
疾風は大きな嘆息を吐き出してから、立ち上がって外出の支度を始めた。行けば、何かわかるかもしれない。その直感を頼りにする外、今の疾風に真実を知る手立ては無かった。
▼
その夜。疾風は禁域に入る岐路の別れ目に立つ、杉の枝葉に紛れて身を潜めていた。太めの枝に寝転がり、もうすでに一刻半はそうしているが、特に異常はない。
「…ホントにいんのかよ?禁域に出入りしてるヤツなんて…。」
眉唾なんじゃねぇのー?と片眉を上げた。此処に来る前に寄った長の館での出来事が頭を過る。
風見が言う事には、どうやら最近頻繁に禁域に出入りをしている者が居るらしい。その人物を見付け、捕らえろとの話だった。かつて自分も禁域に入った事があったから、何だか物凄く居心地悪く感じながらも、疾風はその罪悪感からかあっさり了承したのだ。――そして、今に至る。
颶嵐…否、風見が自分にこの役目を振ったのは、自分の所業がバレてるからだ。これは、きっと戒め。二度と禁域に近付かないようにさせる為の、罰なのだ。どうせ満月の夜辺りには、同じ罪を犯した――というよりは自分が巻き込んだ――風巻もこの役目を任されているのだろう。
(あー…、面倒臭ぇ。夜明けまで、あと何刻だ…?)
眠たい目を擦りながら、僅かに照らす新月前の月を見上げた時だった。
「……!」
どこからか、翼が風を切る音が聞こえる。その音は迷う事無く自分の真下にある分かれ道に向かって近付いてくる。
(この方向は…里のヤツだな。)
身体を起こし、体勢を整える。いつでも飛び出せる準備をして、音の主の到来を息を潜め待った。
黒い翼を背に湛えた烏は、岐路に差し掛かると躊躇い無く禁域への道に向かおうとする。薄い月明かりに照らし出された彼の横顔を見て、疾風は枝から転げ落ちそうになる程驚嘆した。
――アイツを捕まえろって?冗談キツいぜ…。
「――風巻!」
小さな叫びに、影はきょろきょろと辺りを見回す。やがて気配に気付いたのか、弾かれたように頭上を見上げ、見開かれた瞳を更に大きくした。
「疾風…。」
「…お、お前――何やってんだよ…。」
「お前こそ、何をしている。」
逆に問い返され、疾風は言葉に詰まった。お前を捕まえに来たんだってば。枝から飛び降りた疾風は内心呟きながらも、余りにも堂々とした態度を取る少年らしからぬ少年を訝しげに見つめた。風巻はしげしげと疾風を見遣り、ふふん、と鼻で笑った。身長の低い疾風は、何だか見下ろされているようでいい気分がしない。
「さては長の…いや、違うな。風見の入れ知恵か。」
「……!」
「図星、だな。」
風巻はくっ、と咽喉を鳴らした。本当にこの男、わかりやすい。
「…何でわかるんだよ。」
「顔にそう書いてある。」
思わず疾風は己の頬を両手で押さえた。バレバレだ。風巻は細めた双眸でこのわかりやすい男を眺め遣る。至って無表情な風巻が勝ち誇っているように見えるのは、きっと、多分、恐らく、疾風の劣等意識が強いからだろう。
「…ンっとにお前はイヤなヤツだな!」
「お前がわかりやすいだけだ。」
「あー、そうですか。」
「ああ。――ではな。」
会話はうっかりしていると流してしまいそうな位自然に終止符が打たれ、気が付けば風巻は、不貞腐れてそっぽを向いた疾風を尻目に踵を返し駆け出していた。
「お、おい!待てよ!まだ話は終わってねぇぞ!」
慌てて居住まいを正し呼び止めるが、その声が届いたのか届いていないのか、風巻は風のように行ってしまった。勝手に納得してんじゃねーよ。ていうかオレの話聞けよ!
「…ったく、しょうがねぇヤツだな…。」
心中で毒づき長い溜息を吐き出すと、パチン、と頬を叩き気合いを入れた。この道の先にあるモノなんて一つしかない。疾風は駆けっこの『用意』の体勢に腰を落とすと、引いた方の足で勢い良く地を蹴った。
▼
疾風が花信の家の戸口に降り立ったのは、風巻がちょうど彼女の部屋に入った頃だった。一旦戸口に手を掛けたのだが、何となく入るのが躊躇われて、そのままこそこそと裏手の窓際に腰を据えた。
(これじゃ、オレが不審者じゃん…。)
納得はいかないが、この際仕方無い。疾風はおもむろに身体を持ち上げ、窓から中を覗き込んだ。
「調子はどうだ?花信。」
「ああ…。今日は比較的、良いね…。」
「そうか。それは良かった。」
高めに組まれた床に横たわる花信は、弱々しく起き上がろうとした。が、力無く倒れそうになる彼女を風巻が受け止め、
「無理をするな。身体に障る。」
と戒め、再び寝かせた。花信は困ったような笑みを浮かべながらも、おとなしくこの無骨な少年の優しさに甘える。
「もう……半年程経つんだね。あんた達と…出会ってから……。」
「ああ。」
「私の人生の中では短い時間だけど……人生の中で一番楽しかった半年だねぇ。」
「…ああ。」
風巻は彼女に背を向けた。僅かに肩が震える。堪えるようにきつく奥歯を噛み締めた。
「…私の為に泣いてくれる子が存在する。それだけでも…いい人生だった。」
ゆるゆると上げた人差し指を、窓へと向け――
「ほら…其処にも一人……。」
はっとして風巻が窓際に駆け寄ると、悲愴な顔で花信を見つめる疾風の姿があった。
「――疾風!お前……!」
何かを言い掛けた風巻を制し、花信は疾風を手招いた。お入り、と。疾風は導かれるように戸口から中に入り、痩せた花信と、風巻を交互に見た。
「…ど、どうしたんだ、花信。あんた…あんた今にも――。」
「疾風!」
「いいんだよ、風巻。」
優しく目を細めながら、花信は風巻を見遣り、疾風を見遣った。
「私はもう、長くないのさ……。」
「そんな――う、ウソだろ…?」
愕然とする疾風の肩に手を置き、風巻は「真実だ。」と告げた。
――ああ、そうか。だから……。
「だからお前、ここに通ってたのか…。」
孤独を味わってきた花信が、少しでも安らいで逝けるように。死んでしまうその瞬間に、独りにしてしまわないように。
風巻はすい、と花信の元に進み出て跪いた。彼女の手を自らのそれで包み込む。枯れ木のように痩せ細った花信の手は、温かく脈打っている。風巻は深呼吸をしてから、緩慢に瞼を閉じた。
「なぁ、花信。俺の――」
「…家族には、なれないよ。」
言葉を先取りされた風巻は、内心かなり狼狽えた。
「…何故だ。」
「年が離れてる。」
「そんなもの、関係ない!」
「私は、もう死ぬよ。」
「あなたの伴侶になりたいんだ!」
風巻は悲痛な表情で握る手に力を込めた。疾風は生まれてこの方、風巻のこれ程必死な姿を見たことが無かった。風巻の眼が、本気で花信を求めている。
「なぁ、花信。オレからも頼むよ。風巻、あんたのこと好きで仕方ねぇみたいだしさ…。」
疾風がそそくさと近付いて呟いた言葉にも、花信は頭を振った。ゆっくりと持ち上げた手で、風巻の頬を撫でる。
「…ごめんよ。あんたは私に幸せをくれたけど――私はあんたに幸せをあげられない。……私は、男でも女でも無い。二形、なんだ。こんな身体で…不幸にすることを解ってて……あんたの妻になれないよ…。」
「――男とか女とか…そんなもの、関係ない!俺は、花信だから愛した。だから――だから……ッ!」
頬に触れる花信の細い指に、熱い雫が伝い落ちる。風巻は手に手を重ね、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「だから…逝かないでくれ――!」
「……莫迦だね。そんなに、…泣かなくたって……また、会えるさ……。」
ふわりと笑んだ花信の瞳は優しく風巻を見つめる。その瞳が、だんだんと焦点を違わせ、光を失っていく。風巻は息を呑んだ。
「花信!」
「――次に、会えた…その時……あんたが未来を…決まっている未来を、変えることが出来るなら…。その、時は――」
――あんたを、幸せにしてあげても、いいよ……。
「花信!待ってくれ…花信……ッ!」
骨と皮だけになった頬に一筋、涙が伝う。それを最期の命の灯火にして、花信は息絶えた。幸せに満ちた――でも、どこか困ったような、いつもの笑顔で。
薄靄の中、夜明けを迎える。花信の亡骸は柔らかな毛皮に包んで、土に埋めた。疾風の目も、風巻の目も、昇り来る朝日の如く真っ赤に腫れ上がっていた。
「こんな墓しか出来なくてすまない。」
「……オレらが大人になったら、もっと良いヤツ建ててやるからさ。」
「――それまで、これで我慢してくれ。」
静かに述べると、二人は石を数個積んだだけの粗末な墓に手を合わせた。石に掛けられた花信の薄衣が、穏やかな風に揺れる。さわさわと音を立てるそれは、花信の囁きに聞こえた。
『――また、会えるさ。』
ああ。また会える。あなたがそういうのなら、間違いない。
「風巻。そろそろ――行こうぜ。」
「……ああ。」
二人は歩き出した。足取りは重い。主人を失ったあばら家を背にすると、風巻は振り返った。不意に名を呼ばれた気がした。だが、そこにあるのは強くなりだした風の唸り声と葉擦れの音だけだった。
でも、確かに。
確かに此処には、花信の存在が息づいている。
――また会える。
ならば、俺は必ずあなたを見つけだそう。男でも女でも、人間だろうと、異種族だろうと。
そして、今度こそ必ずあなたを手に入れてみせる――。
決意を胸に、風巻は再び歩み出す。見えない未来に向かって。――いつかきっと会える。その言葉だけを支えに、生きて、生きて、生き抜いてやる。
仰ぎ見た早朝の空には、朝焼けに溶け込んで消えゆく、猫の眼のような月が凪いでいた。